at the last Scene

1 蝉脱




 うららかな陽射し。柔らかな風。アシフェルはひとり深い溜め息をつく。
 これも運命なのだ、と彼はひとりごちた。微かに笑みが零れ落ち、霞みのような薄い雲が流れる空を見つめては幾度となく小さく頷いている。
 何かを納得するように、何かを言い聞かせるように。
 不意に彼は長く黄金の河となり床を覆うほどの髪を右肩に纏めると、左手で掴んだ。
あらかじめ用意していたのであろう短剣を右手に、ためらいもなくザックリと音を立てその豪華な髪に切り付けた。
 ばらばらと金の糸が落ちる。手には切り離された金糸の束があった。彼はじっとその束を見つめていた。
 何と重い。
 長い髪の重さを充分に噛み締めるように握り締め、さらにその重みの消えた頭になにか寂しいものを感じていた。
 軽いな。
 彼は再び微笑む。今更気付いた髪の重み。もう、失うものなど何もない。
これ以上失って困るものはない。
 潮時、とでも言うのだろうか。
 彼は突然手にしていた髪の束をおもいっきり強く投げ捨てるように振り払った。部屋中に金の糸がキラキラと光に透けながら散乱する様を彼は見つめる。そうかと思えば頭を抱え込み、その金の海から目を背ける。
「どうなさいましたの? アシフェル様ともあろうお方が。まるで金の草原ですわね。このお部屋」
 音もなく入って来た女に、彼は驚きもせず、振り返りもしなかった。
「ユアーナ……。私は、どうしたらいい?」
 今までにない弱々しい声。
「それはご自分で決断なさることですわ。私の口を挟むことではございません」
 女は床に広がる髪の一本を指で摘みながら静かにゆっくりと言い放つ。
「どちらを選ばれたとしても、誰も貴方を咎める者はいませんわ。自由な貴方の意思でお決めになられればよろしいのです」
 わかっている。わかっているけれど、と、彼は緩く頭を振った。
「ユアーナ……。妹は──強いな。私がこんなにまで苦しむことを妹は二度までも……。私はなんと惨い男か。なんとだらしない兄か。今更後悔しても悔やんでも仕方のないことだがな。私は酷い兄であり酷い神であったと全ての民に謝罪せねばならぬ……」
 彼は泣いていた。微笑んではいたが、確かに泣いているようだった。
「ご自分ばかりを責めないで下さい。これからは得るために生きるのですもの。過ぎてしまったことはもうどうにもなりませんわ。今はただ、貴方に課せられた決断を下すのみ。 そうではなくて?」
 黒髪の女はその背に闇色の翼をたたみ、美しく微笑んだ。
「誠、金の海原のような部屋だな。こんな所にいたのか? ユアーナ」
 突然の低く静かな旋律を持った声の出現に、彼女は即座に振り向き跪く。
 アシフェルもまた同じように跪き下を向いたまま、凍ったように動くことが出来なかった。背筋に走る戦慄と畏怖。切迫した心臓の高鳴り。全てが彼を止まらせた。
「そう堅くならずとも良い。楽にするがいい。アシフェルよ、長に渡りよく尽くしてくれた。礼を言う」
 声の主は労りの声色で、その時を告げた。いともあっさりと。
 アシフェルの中で、何かが音を発て崩れていく気がした。
 震えている。今更彼の全てが震えていた。
 ありがとうございます、と、声にならぬ声が告げる。
 アシフェルはゆっくりと顔を上げ、その湧き出る泉のような碧い瞳に、その姿を焼き付けるがごとく声の主を捕らえた。
「……闇神……」
 微かに声が出た。彼等を統治し、彼にこの地を与えた者の称号。
 そこに立っていた神は、優しく、しかし冷静なまでに冷ややかな神気あふれる面立ちで 彼を見下ろしていた。
 なんと秀麗な姿。彼は忘れまいと心に誓う。闇の領土である中に与えられた、この光の名に相応しい者でありたい。彼は、静かな笑みを浮かべつつ立ち上がった。
「アシフェル様……」
 穏やかな表情でユアーナが問い掛けた。彼はその問いに小さく頷いて答えただけであったが、それでも彼女は満足がいったような笑みを浮かべ、素早く踵を返すと、金の草原だと言ったその部屋から姿を消した。
 まるで彼女と入れ違いのように、流麗たる人物が絹擦れの音と共にやってきた。
「光神、か」
 闇神はその後ろからやってきた人物を、振り返り確認する必要もなく言い当てる。
「どうやら決断がついたようですね」
 光神の名に相応しく、その見目麗しく八面玲瓏にして清冽な印象を与え、しかしその瞳は醇美なだけに恐ろしく、冷厳であり怜悧なきらめきを宿していた。そのあまりの神々しさの中に、冷たい一面を持っていそうにも思えた。が、その一面は外見からではどれほどのものか計り兼ねるほどに微量な物。
「見事な金の髪、随分と思い切ったことをしましたねアシフェル」
 そう語り掛ける彼の髪ほど、誠の光の宿る髪はないと思われた。それほどまでに美しい姿は人には許されない美であった。神にのみ与えられた特権。
「今ここに、貴方の御手に長きに渡りこの身に授かりし光神の名をお返し致したく存じます」
「確かに、この手にその称号受け取りましょう。永い月日を良く尽くしてくれましたね。 最期は私どもがしかと見届けましょうぞ。心置きなく旅立たれよ」
 光神の光神であるがための暖かな優しさ、そしてその中に広がる冴え冴えとした凍えるなにかがアシフェルを包む。
「永きに渡る失礼の数々、ここに我が死をもってあがないたく、アシフェル・リロス今この時を最期といたします」
 彼は清々しい瞳に決意を漲らせていた。
「何か望みは? 良く尽くしてくれたのだ。褒美を願うがいい」
 闇神が最後の情けを見せる。
「ありがたきお言葉。願わくば、我が妹の御魂とともに。メイジスラジアの側で、今度こそその幸せを祝福し心穏やかに暮らしたいと。ただそれだけが望みの全てにございます」
 ふたりの神はアシフェルの最後の言葉をしかと聞き届けた。
「相分かった。望みは適えられるであろう。後のことは心配せずともよい。次のティリロモスでの光神と闇神の継承の儀は間もなく行われるゆえ」
 彼はそれを聞き、死を待つだけの存在である自分をここに確認することになった。
「次は……この城に住む者……闇の城の主となる者を、是非にとは申しませんがお聞かせ願えませんでしょうか」
 ふと彼は妹亡き後、主不在のまま静かに佇んでいた城を気に掛けた。
「此度称号を与えられし者に、女神はおりません」
 その光神の言葉に彼は目を逸らす。全てこうなってしまったのは彼の至らぬさゆえ。己の愛憎に負けてしまったがため。
 二度とあってはならぬ間違いを犯してしまったこの身が罪もない民を死にいたらしめてしまったのだ。許されるはずがない。
永久の命を持つものが死を覚悟するときに何を思うのか。女神メイジスラジアの最期はいかなるものだったのか。
──彼は、何の前触れもなく燃え始めた。
 黄金の炎。
美しく艶やかな金の炎が燃え立ち、アシフェルの体を覆い尽くしてゆく。
 アシフェルは自分自身を強く抱き締め、目を瞑っていた。空を仰ぐように向けられた瞼の奥から、一筋の涙が頬をつたい涙の滴が滴るその瞬間に、部屋に散らばった彼の髪が風に舞い上がり乱舞し、突風の中へ姿を消した。
もうそこに、彼の、アシフェルの姿はなかった。
 何ひとつ残すことなく彼は逝ってしまった。
その瞬間はあっけなく、寂しく、悲しくもあったが、その死を悲しむ者はこの場にはいなかった。

 ふたりの神はアシフェルの死を確認すると揃って城を後にする。
「わざわざ足を運んでいただき感謝する」
「これも仕事のうちです」
 何事もなかったように交わされる会話にさえも彼等の心内は見えない。
 彼等の去った後、ティリロモスの主人を失ったばかりの城にユアーナがひとりやって来た。今し方までその部屋に存在していたアシフェルを思い立ち尽くす。
 ぼんやりと辺りを見回した後、彼女もまた城を後にした。
 報告しなければ。なにかと彼等を気に掛けていた人物に。あの少女なら、神の称号を持たぬ者ならば、アシフェルの最期をどう受け止めるのだろう。
 ユアーナは城から出ることを禁じられた少女のことを思い浮かべる。
 彼女に報告しなければ。
 貴女がそこで見て聞いた、全てを教えてほしいとリーゼが黒い瞳で懇願したのだ。いつもは慕う兄ですら、この日ばかりは縋れないと、彼女はユアーナに結末を見てほしいと頼んでいた。
見ずとも聞かずとも、彼女はこの結末を知っていた。だから王はこの日、少女から自由を奪った。見てはならぬ物がある。知ってはならぬこともある。少女は部屋で何をしているのだろうか。ユアーナの竜を操る手に複雑な気持ちが現れる。
 リーゼ様に頼まれたとは言え、幾度この地を訪れたのだろう。その度にアシフェル様は快く迎えてくれた。日だまりのように暖かな笑顔で。
 なのに、もう彼はいない……。
 ふとユアーナの心に風が吹いた気がした。そして、彼女は知っている。あの時流した涙の意味を。
 もう、疲れ果ててしまったよ……。私もこれで楽になる……。
 最後に微笑んだ彼の答えが、彼女の胸に蘇る。
 そしてこの地からアシフェルが消えた。
 ソレハ只、愛スルガ為、貴女ヲ見タクテ、貴女ヲ側ニ、見テイタクテ。
 何時カ、此デ、再ビ此デ、貴女ガ居レバ、今ハ、只、幸福デアレト、願ウ日々……。

 響く君の歌声が 
風になり 七色の硝子の橋を
 今も渡って行くようで
 そこで沸き立つ泡のように
 まだ君は 歌い続ける

 今は只、君の歌に
     包まれていたいだけの懐い




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: 表紙 :